February 17, 2019
曇り空、陽が落ちきる前の夕暮れ時。
瓶底のぶ厚いガラス張りのメゾンの中は、
街を彩る夜の灯りが放つ色で照らされていました。
どんな音が待っているのだろう…”初体験”のときめきでやって来た展覧会
「ピアニスト」向井山朋子展。
会場に到着するとすでに
鍵盤が持つ音をひとつひとつ確かめるように、のんびり叩く音が鳴り響いている。
開演前の練習というその調べは、調律でもするかのように単調
であるけれど、彼女の身体に流れている音なのでしょうか、
一音一音にこもる体温が静かな場にも伝わります。
アップライト、グランドと、展示された様々なフォルムのピアノ達の隙間に、
三々五々で集まる鑑賞者もそれぞれのポジションに佇みながらじっと耳を傾ける。
楽屋に戻ったピアニスト、今宵の美しきパフォーマーが再び
明るいフクシア色のイブニングドレスで現れると、
さあ、本番の始まりです。
かすかに低くゆるやかに、時にコンマ数秒途切れる鍵盤の音...
主旋律に低い不協和音も時折混じる。
はじまりの数分は
音符のひとつがどこかにポンと跳ねたり、行方不明になったりでどこか凸凹している。
荒さも味になった旋律は、徐々に加速しながら研磨され滑らかになる。
弾くほどに、音は和して共鳴して
まるい和音に変わる....成長する...感じ。
澄み切った、整った一つのモノに生まれ変わった主旋律と伴奏は
攻めようのない完璧な音楽となって
滔々と流れながらこの空間の時を紡ぐ。
ピアノの奏でに混じりながら、
途中途中で混じる聴き慣れた音達。
コートに鞄が擦れる音、柔らかなゴム底のスニーカーが立てる足音...
会場カメラマンが切る消音シャッターの音....
メインストリートを走る救急車のサイレン...
日常の生活音も演奏の一部になる。
息切れしないどころか、演奏の終わりも見えないほどに
増していく奏者のエネルギー。
やわらかく、力強く、朗々と…なみなみとこの場を満たしていくように
途切れないスタミナで弾ききる60分を超える一曲。
どっぷり浸った自由な音の海の底から聴こえたのは
「脱ぎ捨てる...脱ぎ捨てよう」
のメッセージ。
その言葉を受け取ったのは私だけなのだろうか。。。
アートギャラリーの床に腰を下ろしてピアノ演奏を聴く。
少々特殊な状況に置かれた空間では、
聞こえないはずの声も素直に受け取ってしてしまう。
ひとりで、ふたりで...
集まるのはそれぞれまったくの見知らぬもの同士。
これからもすれ違っても記憶にないだろう同士で埋め尽くされた会場の
共通項はただひとつ、
この演奏を聴くということ。
それぞれが纏うそれぞれの空気は、
彼女の全身を通して伝えられる旋律を浴びて
ゆるやかに一つになる...完全な輪になる...
まるで一人の人の個々の細胞が息づいて
それぞれ自由自在にそれぞれの機能のを自然に働かせながら呼吸しているような
ただ一人ヒトになる...奏者も聴衆も共にで一人の人に。
余韻
というものを指の触感をもって掴みとる、というのはこのことだろうか。
終わりが見えない、いや、このまま終わらないでとさえ
心の片隅に湧いていた想いも自然に終わらせてくれるように
最後の音が作る波動が滑らかにそれぞれの者達の内奥に消えていく、しんと。
照明はピアノ前のスタンドだけ。
まだ薄暗い部屋が微笑みで満ちる…のが見えた気がした。
スタンディングオベーションで、万雷のだけれど耳心地良い上品な拍手がギャラリーを満たす。
奏者である向井山さんの麗しい、ちょっとはにかんだ笑顔が
溢れる笑顔達の中で可憐な華を咲かせる。
立春の日から始まり、1日に1度だけ時計の針を進めるように
毎日1時間ずつの時差で1日に一度だけの演奏が行われる。
最終日の2月28日の演奏が終わるのはちょうどお昼頃。
これから南中を迎えようとする太陽の明るさの中では、
宵には決して出会えない音を浴びることになる...の期待は否めない。
余韻といえば、あれから8年...
隣室に展示されるのは東日本大震災の津波被害から残った2台のグランドピアノ。
鍵盤は何か所も歪んで不揃いのまま、流されただろう脚は真新しい白木に生まれ変わり、
かろうじて残ったフレームを覆う白布が照明のない部屋で白く浮き上がる。
きょうの新しき余韻と、過去から半永久的に向けても続く古き余韻。
清々しさとどこか重さを伴う余韻を胸の底に記憶しながら
初体験の時空間を去る.....
音に浴して
この長い冬の寒さから心を癒す、遠からじの春に向かう心立つ宵にて。
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時間と空間の変化を音で観察する、感受する。
これが一つの実験であるならば、その結果を知りたいとも思う展覧会です。
*『ピアニスト 向井山朋子展』
@銀座メゾンエルメス フォーラム
プロフィール(展覧会HPより抜粋)
向井山朋子 Tomoko Mukaiyama:
ピアニスト/美術家。オランダ、アムステルダム在住。
1991年、ガウデアムス国際現代音楽演奏コンクール優勝。
ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団(オランダ)、ニューヨーク・フィルハーモニック
(米国)をはじめ、世界の楽団にソリストとして招聘され、新作の初演に携わっている。
近年は従来の形式にとらわれない舞台芸術やインスタレーション作品を発表。